山中人独語

楽しかった海外旅行のエピソードをつづります。

2013年01月

                            兵馬俑坑(へいばようこう)(世界遺産)

西安市より東へ35km驪山(りざん)の北に秦の始皇帝陵がある。
この始皇帝陵より更に東へ1.5kmのところに兵馬俑坑はある。
1974年近くの村人が、井戸を掘っているときに発見した。
現在、この村人は、博物館の名誉副館長となっている。
また、近くに土産物店兼食堂を経営し、大金持ちになったということである。
兵馬俑坑は、1号坑から4号坑まであるが、4号坑は何も発見されなかったため、見学の対象にはなっていない。
博物館もある。
兵馬俑坑入口にある秦の始皇帝像

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 整然と並ぶ兵馬俑(1号坑)
兵馬俑とは、墓主の死後の生活を助けるために副葬された人や馬の形をした埋葬品のこと。
戦車100余台、陶馬600体、兵士俑8000体を数えるという。

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 兵士俑と馬俑(1号坑)
全て東を向いて立っている。

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 兵馬俑が1974年に初めて発見された場所(1号坑)

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兵士俑
顔の形がすべて違う。

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修復作業中の馬俑

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修復作業中の兵士俑

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頭のない兵士俑(3号坑)

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4頭立て戦車馬俑(3号坑)

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膝付き射手兵士俑 

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立射兵士俑

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中級兵士俑

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騎馬隊の馬俑と兵俑

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博物館でもっとも有名な銅車馬(立車)俑
御者は立っている。

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銅車馬(安車)俑
御者は座っている。

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兵馬俑が造られた当時は、全て彩色されていたことが、最近の調査で分かった。
一部色が残っている兵士俑が発見されている。

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                                       楼蘭(ろうらん)の美女

ウルムチ博物館を有名にしたのは、なんといっても「楼蘭の美女」なるミイラの展示である。

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「楼蘭の美女」ミイラ
楼蘭は、中国新疆ウイグル自治区タリム盆地の東端、西域南道沿いの孔雀河下流ロブノール湖の西岸に位置する都市。
鄯善(ぜんぜん)国の旧名を持つ。
古来、シルクロードの要衝として栄えたが、7世紀以降は廃墟と化し,忘れ去られた。
「楼蘭の美女」のミイラは、紀元前19世紀ごろ(約3800年前)の女性。

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「楼蘭の美女」のミイラの顔を再現してみると・・・こんな顔に?

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「楼蘭の美女」の人形

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小河墓地遺跡の船形棺

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船形棺に埋葬されていたミイラ

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壁画

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壁画
日本の古代壁画に通じるものがある。

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壁画
仏教曼荼羅の一種だろうか?

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壁画
この壁画は、背中に羽を持っており、天使像に似ている。
どう見ても仏教的壁画ではない。
西欧の影響を強く受けている。

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                                                 カレーズ

カレーズとは、ペルシャ語で「地下水」を意味する言葉。
トルファンでは、ほとんで雨が降らないので、地下水路を掘り天山山脈からの雪解け水を町に引き入れている。
地下水路は、トルファンの生命線である。

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カレーズを掘るための苦労が、立体模型で示されている。 

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 今も町中を昏々と流れるカレーズ。

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                                                交河故城

トルファン盆地の西11km、2つの河に挟まれた高さ30mの高台にある世界最大、最古級の版築(土に石灰を混ぜて固めたもの)で築かれた故城。

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前漢時代に屯田が設けられたのが初め。
その後、前車師王国の王都となった。
天山ウイグル時代の繁栄期を経て、元の時代には衰退し、現在は荒涼とした街跡が残るのみ。

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前車師王国時代、ここが西域北道の出発点となった。
1996年、中国と日本の調査隊が、交河故城溝西墓から黄金の王冠をはじめ、数々の装飾品を発見し、話題となった。

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                                            火焔山

トルファン盆地の北端に100kmにわたって連なる山脈。
この山では、日中、気温が40度を超えると辺りの地表温度は60度以上になる。
「西遊記」の中で、孫悟空が鉄扇公主と戦った場所として有名。
山が赤いのは、鉄分を多く含む岩石のため。
トルファンの人々は、このあたりの山を「赤い山」と呼んでいる。

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乳房山(砂山)

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                                    ベゼクリク千仏洞

トルファンの東約50kmにある、仏教徒のウイグル族によって開かれた遺跡。
天山山脈を水源とするムルトク河西岸の断崖に掘られている。

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窟の数は57、南北約400mにわたって開鑿(かいさく)されている。
しかし、心無い探検家により、数多くの窟が荒らされ、持ち去られた仏像・仏画も多い。
内部は、撮影禁止。

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                                        高昌故城

柔然が漢民族の傀儡(かいらい)政権を樹立した460年に都とした高昌城の遺跡。
歴史的には、漢代の武帝が置いた郡が独立したことに始まるといわれている。

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しかし、その後は唐によって滅亡の一途をたどった。
故城は、一辺が約1.5kmの四角形という大きなもので、唐代には西域経営の中心地となった。
 高昌故城は、ロバ車で見学する。

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荒廃してしまった今の故城からも、当時の繁栄ぶりをうかがうことができる。

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高昌故城で現在も残る円筒形の建物

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玄奘三蔵も628年高昌国に立ち寄った時、ここで仏教について講義したという。

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                       ファテープル・シークリー(世界遺産)

ムガール帝国が最盛期へと向かう16世紀後半、第3代皇帝アクバルは、跡継ぎに恵まれず悩んでいた。
そんな時、シークリーに住むイスラム教の聖人、シェイク・サリーム・チシュティーが、皇帝は3人の息子を授かるであろうと、予言する。
実際、後にジャハンギールという息子が誕生する。
これにちなんで、アクバル帝は、小さな村でしかなかったシークリーへ都を移転させた。
これがファテープル・シークリーである。
しかし、水不足と猛暑により、14年でこの都は、放棄された。
下は、パンチ・マハール
最上階のドームに向かって4つの階が重なる5重の塔。
176本の柱を使った不思議な様式は、ペルシャの建築をモデルにしたものだといわれている。

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ディワニ・カース
ファテープル・シークリーで最も優美な建物。
別名「宝石の家」とも呼ばれている。
内部には、皇帝の玉座がある。

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クワーブ・ガー
池の奥に建つ建物は、アクバル帝の仕事部屋。
また、一部は、皇帝の寝室として使われ、皇帝が個人的な時間を過ごした場所。

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クワーブ・ガーから見たパンチ・マハールとディワニ・カース。

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ジョダ・バイ宮殿
アクバル帝とその妻たちが住んだ宮殿。
皇帝には、ヒンズー教徒のジョダ・バイのほか、イスラム教徒とキリスト教徒の妻がいた。
この宮殿には、中庭を囲むように3人の部屋が造られている。
皇帝は、このジョダ・バイ宮殿とクワーブ・がーとを毎日行き来したという。

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                                     アグラ城(世界遺産)

アグラ城は、1656年から10年の歳月をかけ、ムガール帝国第3代皇帝のアクバルによって建てられた、堅固な要塞である。
高さ20mを誇る赤砂岩の城壁に囲まれ、その壁は、2,5kmにわたって続いている。

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アマル・シン・ゲート
城の南側の門

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頑丈な造りで、敵を寄せ付けない迫力がある。

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ジャハンギール宮殿
アクバル帝が、息子のジャハンギールのために建てた宮殿
左右相称の優美な建物

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アグラ城からは、タージ・マハールが見える。
タージ・マハールは、シャージャハーン皇帝が、愛妃ムムタズ・マハールの死に対して捧げた霊廟

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ムサンマン・ブルジュ
シャー・ジャハーン帝が愛妃ムムタズ・マハールのために建てた八角の塔。
ジャスミンタワーとも呼ばれている。 

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室内には、当時としては珍しい噴水も備わっている。
晩年は、シャー・ジャハーン皇帝本人が息子(アウラングゼーブ帝)によって、ここに幽閉され、74歳の生涯を閉じることになる。
シャー・ジャハーン帝は、現在、タージ・マハールに愛妃ムムタズ・マハールとともに眠っている。

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                              ジャンタル・マンタル(世界遺産)

天文学者でもあった皇帝サワーイ・ジャイ・スィン2世が、1728年に建造した天文観測所。
全部で16の観測儀があり、時刻や太陽の高さ、星座の位置、日の出日の入りの太陽の位置などを観測できる。
1901年に修復が行われ、現在も観測が続けられている。
サムラート・ヤントラ
2秒単位で正確な時刻を計測できる。 

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ナディヴァラヤ・ヤントラ 
春分、秋分、夏至、冬至を計測する観測儀

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 ジャイ・プラカーシュ・ヤントラ
地中に窪んだ半球状の計測儀
他の計測儀のデータを補足する計測儀
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                                     ハワー・マハール(風の宮殿)
 
姿を見られることを禁じられていた宮廷女性のために、1799年皇帝サワーイ・プラタップ・スィンが建てた宮殿
5階建ての正面部分は、奥行のない小部屋に区切られていて、どの方角からでも風が入るように工夫されている。
宮廷女性たちは、ここから祝祭の行列や、日常の活気あふれる街の様子を眺めたという。
入口は、建物裏手の細い路地にある。

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                                          アンベール城 

 アンベール城は、16世紀初頭に皇帝マン・スィンによって建設が開始され、その後、歴代の皇帝によって増改築が繰り返され、17世紀のジャイ・スィン1世の時代にほぼ現在の姿になったといわrている。
丘の斜面に築かれた城は、高低差によってスペースが区切られており、低層は公的なエリア、高層は皇帝の私的空間となっている。

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低層部広場の象タクシー乗り場

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 ガネーシャ門
緻密なフレスコ画がすばらしい。
これから先が、皇帝のプライベート空間となる。

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皇帝のプライベート空間
右側の建物が、皇帝の私室
私室の両側に王妃の部屋が並ぶ。

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                                          シティ・パレス

チャンドラ・マハール(皇帝の住居)
内部は、非公開
クジャクやハスをモチーフにした4つの門が、中庭の両側にある。

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ムバラク・マハール(旧レセプションセンター)
現在は、皇帝の衣装などを展示する博物館となっている。

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ディワニ・カース(貴賓謁見の間)
銀の壺が入口の左右に置かれている。

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銀の壺 
1902年皇帝が英国を訪問した際、毎日の沐浴のためにガンジス河の水を入れて持って行ったものだという。
高さ160cm、容量900ℓの壺は、世界最大の銀製品としてギネスブックに登録されている。

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サブハ・ニワス
歴代皇帝の肖像画が並ぶギャラリーとなっている。

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皇帝末裔(まつえい)の住居
現在も皇帝一族が居住しており、その一部を博物館として公開しているのである。
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